黄金期ジャンプの影

主にジャンプ黄金期の短期終了作品について語ります

黄金期ジャンプで最も多くの作品を連載した男 番外編

 当ブログでは前回まで3回にわたって黄金期ジャンプで最も多くの作品を連載した男である次原隆二の短期連載作品群を紹介してきた

 

shadowofjump.hatenablog.com

 

 ところで、次原隆二は連載作品だけじゃなく読切作品も多く、黄金期における掲載数は8本もあって北条司の10本に続いて2番目、更にフレッシュジャンプや増刊にも掲載しておりそちらも加えるとその数は倍以上に増えたりする

 という訳で今回はそんな次原隆二の読切作品たちの中でも少し特殊なこちらの単行本を紹介したい

 

 週刊少年ジャンプ特別編集 ノーベル賞受賞者特別寄稿

 好きなことをやれ‼ 21世紀の天才たちへ 漫画編

 本単行本は92年31号に掲載された「0の宇宙 ブラックホールの誕生を予言した男」を皮切りに不定期で掲載されたノーベル賞受賞者をテーマにした作品に同テーマの描き下ろし作品を加えた7本の漫画、更に受賞者のコメントまで収録したものである。ちなみに漫画編とわざわざ銘打っている通り漫画じゃないバージョンもあり、私は未見だがそちらは受賞者42人のインタビューが掲載されているという

 前回紹介した「元気やでっ」はジャンプがいじめ問題に取り組んだ結果誕生したものだったが、90年代に入ってからのジャンプはその莫大な発行部数からくる大きな影響力を社会貢献に役立てようという考えでもあったのか、それともやがて来る黄金期の終焉に備えて模索していたのか社会的な企画がちょこちょこ誌面を飾っており、これもそのうちの1つだ

 内容的にはどの話もノーベル賞受賞者の生い立ちから始まる伝記的漫画になっている訳だが、正直その時点でジャンプの読者層は興味を持たないし、加えてその受賞者もS・チャンドラセカールとかチャールズ・H・タウンズとか全く馴染みのない人物の上、ノーベル賞に繋がる発見も基本的には研究の積み重ねによるものなので漫画的な盛り上がりに欠けていた。この問題は「元気やでっ」を核とするいじめ問題キャンペーンや、本作品と同年に行われた戦後60周年企画なども同様であり、これらの企画は結局以降の誌面に何ら影響を及ぼす事は無く、ジャンプは黄金期の終焉を迎える事となる

 

 それにしても作者はどうしてこんなに多くの連載及び読切作品を描く事が出来たのだろうかと不思議に思う人もいるのではないか。というか私自身もそう思うし。それは何故かと考えた結果、作者の陰にいるある人物の存在が関係しているのではないだろうかという結論に落ち着いた

 その人物とは堀江信彦。作者の担当編集者であり、「北斗の拳」などのヒット作を生み出して編集部では一目置かれ、93年からはジャンプの編集長に就任した人物である

 ついでに言うなら作者と並んで黄金期で最多の連載作品数を誇る桂正和の担当もまた後にジャンプの編集長となるあのマシリトこと鳥嶋和彦、更に土方茂名義も含めてデビュー以来4度続けて短期終了を喫しても切り捨てられず5度目の「ヒカルの碁」でようやくヒットを飛ばした小畑健の担当もやはり後に編集長となる茨木政彦なのを鑑みると、担当編集の力がどれだけ重要かがわかるだろう

 勿論どれだけ有力な編集者であろうがジャンプの誌面を好き勝手にできる訳もない。が、例えば連載作品の入れ替え枠が3つあってその内2つは有力な候補があるが、あと1つはどうしようという場合には自分が担当する作家を捻じ込む事も可能であろう。そうでもなければ複数のヒット作がある桂正和はともかく「よろしくメカドック」以外にヒット作を持たない作者が何度も何度も短期終了を繰り返しても他の作家を押しのけて連載の依頼が来た事の説明がつくまい

 とはいえ、堀江が担当した漫画家は他にも数多くいた訳で、その中で作者が選ばれるのには別の理由が必要である

 私はジャンプを購読する以前から家に「よろしくメカドック」の単行本があったという環境のおかげで作者の作品はどれも注目していたのだが、作品を読んで共通して感じる印象はどの作品も古臭ささがあるが話としてはまとまっている、言い換えれば構成力が高いというものだ

 そういった能力の高さから作者は優先的に仕事を振られていたのだろうが、それは作者が一方的に恩恵を受けていたという訳でもない。本単行本に収められているような作品は漫画にするのは難しいのにテーマ的に読者に受けない、よしんば受けたとしても連載化に繋がるとも思えないので漫画家としてはあまり請けたくない仕事であろう。また、「元気やでっ」での作画は無しで脚本・構成・演出という役割も本来は漫画家が担うべきものではない。そういった引き受け手のいない企画を都合よく押し付けられる場合もあり、いわば2人は持ちつ持たれつの関係なのである

 そういった深い関係であるから堀江が集英社を退社した際は、やはり堀江が担当していた原哲夫北条司らと共に堀江の下に集結して編集プロダクションのコアミックスを設立、集英社と袂を分かつのは当然の流れであった